こんにちは。ゼネラルヨガ ユニヴァです。
最近、僕自身色んな事を考えています。
今日、あるユニヴァの講師を泣かせてしまいました。自分では、よかれと思っていた事が、実は相手にとって、迷惑な事があります。
そう思ったら、ふっと、自分の考えがシフトしてきました。
苦労してない人は、相手の気持ちが分からないと言います。まさしく僕の事で(卑屈になっているつもりではないのですが)、どうして僕はこう人を傷つけてしまうのだろうと思う。
僕も落ちて行った事がある。その時、落ちていった時、身につけたものというのは、感情を殺す事。自分の感情を殺さないと、僕も繊細でしたので、やっていけなかった。
本当に苦労した人は、相手の気持ちが分かるというが、僕は残念ながら、人にとってはそんなのたいした事ないという所でもがいていたんじゃないか。感情をみないというような癖がどうもついている。本質を言っているつもりが、ただ単に相手を傷つけているだけの時が、よくある。相手の事を思って言ったつもりが先走って、かえって相手に不信感を与えてしまうことが、本当によくある。
そう思うと、今日のこの日記も、誰かに、「それ私を批判しているの?」と受け止められているかもしれないと感じる。自分に対して書いています。こういう変な配慮も、きっと誰かを不信にさせているのだろう。あー、なんだかなー。
これは反省ではなく、自己分析して、明日に繋げようと自分で認識している。始末が悪いのか。
本質的な所さえ間違っていなかったら、それで自分の態度を全く替える必要もないという大変合理的というか、そこに感情の入る余地を相手に与えていなかったんだろう。
一寸の虫にも五分の魂という言葉が好きで、自分の座右の銘という訳ではないが、そうありたいと思って、僕にだって意地があるんだと思ってやってきたつもりだが、そういうつもりばかり、自分の意地ばかり気にして、相手のもっともっと感情的な所に配慮していない自分を発見している。
ごくごく小さな事かもしれないが、ひずみを感じている。発想を替えて、やっていきたいと思っている。もちろん、自分に素直な気持ちが一番大事。
これまた僕の好きな言葉。きっと好きな言葉というのは、もっとも自分ができていない言葉なんだろう。「与え与え続けなさい」という観音菩薩みたいな言葉。凄く素敵で、こうありたいと願う。でも、本当の自分は、相手と常にwin-winの関係でいたいと願っている。これが本心だとこれまた自己分析する。
自分に独り占めしたいとか邪心がなかったか?あった。でもそれは僕が掲げた原点ではない。「警固の四つ角で末永く末永くヨガ教室を続けて行く事」これが、まさしく僕の本心だ。この考えは全くぶれないので、そうだ。
色々と考えがぶれた。その為には、多くの人達の協力が必要だし、その人達がwinになってくれればいい。winとかloseとかヨガっぽくないか?ごめん、それ以上の事は考えきれない。ただ、皆がwinになればいい。表面的なwinではない。なにが僕の思うwinなの?
僕の好きな話。1階が温泉場で2階がボーリング場で、ボーリングの玉を投げる音がどんどん響いて、おちついて温泉に入れないという苦情がその温泉場に殺到したそうです。そこでその温泉場の人は考えました。「名物 カミナリ温泉」子供さん達は、「カミナリの聞こえる温泉に行きたい」とおじいちゃん達に言って、おじいちゃんも、孫が好きなら・・と言って、一緒にボーリングの音が鳴る度に孫が喜んでいるのを見て、「カミナリ温泉も捨てたもんじゃないな」と、その温泉場は繁盛したそうです。
恐竜の時代に我々の祖先であるほ乳類がどうやって生き残ってき、今では地球上最強の動物、人間となっていったのか?恐竜より弱かったからこそ、聴覚を発展させ、三次元、四次元の感覚を身につけ、考えるという脳を発展させたそうです。
一見不利な条件に見えるものは、実はチャンス。それをものにしていきたい。僕の根底にはそれがある。そして、それをいわゆる理念の根幹に据えています。ピンチはチャンス。
色んな人達が、ピンチになるような事を今から伝えていくでしょう。でも、それはその人達にとってチャンスな事。
自分に囲い込むような事ばかりしないで、それはその人にとって、チャンスと他の人達にも提案していきたい。それで、落ち込まないで欲しい。うまく言えないけど、心の中では、ブルーハーツ風に言うと、「頑張れ」って応援している。
なんでもエゴになっちゃうけど、なんかずれがあるんだが、自分の器を知り、みなの幸せを望む。都合のいい自分にはなりたくないし、また都合のいい自分であって欲しくない。着地点を見つけましょう。
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